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西武多摩湖線この一年の動向 [大手民鉄]

画像は八国山を背景に走る多摩湖線の列車で4扉車(9000系)。同線へは昨年から今年にかけて同型が3編成配属された。4扉車に統一後、国分寺駅にホームドアが設置されるそうだ。
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さて従来の3扉車(N101系)は同時期に2編成が廃車され、1262(伊豆箱根塗装)が西武ドーム近くで静態保存された。同系はこれで残り8編成となった。戦後75年に亘り続いてきた伝統の3扉車の残党も数を減らし終焉の時が迫っているようで最後は離れ小島の多摩川線に集結することになるのだろう。あの額縁鉄仮面はどうも好きになれないが・・・

思えば多摩湖線は多摩湖鉄道として開業当初から中古車、京王の単車や西武軌道(後の都電杉並線15系統)の木造車を導入し、以来現在に至るまで新宿線からの直通を除いて新車が入ったことは一度もないという全く日の当たらない路線で、今後も余程のことがない限り現役末期の老朽車があてがわれるものと推察される。

タグ:西武 多摩湖
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地下鉄銀座線渋谷駅が正月休み!! [大手民鉄]

銀座線渋谷駅が明治通りの上空に丸ごと引っ越して1月3日から営業とのことで、百年に一度という大事業らしい。旧駅は百貨店の中に駅を設けたので開業当時大層話題になったそうだがそのユニークな駅もついに幕を下ろすこととなった。

ところで、この工事期間中浅草から来た電車は溜池山王で折り返してしまう。渋谷までの間でここしか折り返す駅がないのだ。以前の線路切替工事の時もそうだった。

唯一孤立してしまう外苑前駅救済のために両隣の表参道と青山一丁目間だけピストン輸送する。複線の両方を使用した双単線方式の運転だが従来の逆方向へはそれぞれ回送となる。
片輸送で何とも能率の悪いやり方だが、逆走は保安設備(信号)なしの目視運転だろうから安全上客は乗せないものと推察。

さて、銀座線の駅が移動すると、タダでさえ遠い井の頭線の駅は増々孤立して不便になる。再開発で百貨店も建て替えることだし銀座線の旧駅跡地近くに井の頭線の駅を持ってきて便利にして欲しいものだが・・・。

何たってココは東急の牙城シブヤだから京王が潜り込むのはとてもじゃないけど無理だろうな~。
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小平市の二つの廃駅 [大手民鉄]

新宿から西武線で30分程乗ると小平という町に着く。
かつてこの地には現在の小平駅を挟んで西と東に本小平(もとこだいら)駅と東小平駅という二つの駅があった。

●本小平駅は多摩湖鉄道の萩山駅から分岐する支線の終端として開業し、現在の小平駅下り方すぐ隣りに設置された。西武線とは踏切のある道路を隔てて徒歩連絡で、両社の確執があってこのような形になったという。
その場所は現在の小平1号踏切と小平2号踏切の間と推測されるがその痕跡は全くない。現在の拝島線の線路のある辺りだろうか。google mapで検索すると「本小平駅跡」の表示が出る。

後に多摩湖鉄道は現在の西武鉄道に吸収されて小平駅も一つに纏まり乗り換えも便利になったが、一支線に過ぎなかった小平へのヒゲ線は拝島線の開業に伴いその一部に組み込まれて大きく変貌を遂げ、分岐点であった萩山駅の位置も分岐方向も変わり名物だったデルタ線も消滅した。

本小平駅:1928(昭和3)年開設、1949(昭和24)年、現小平駅と統合。

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奥が現小平駅と小平1号踏切、右2本が拝島線の線路。:小平2号踏切より撮影

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現在の保線区の場所が旧萩山駅跡。左へカーブすると現萩山駅で正面奥に拝島線の線路、かつては右方へ本小平への線路が伸び一時期デルタ線を形成していた。


●東小平駅は旧西武鉄道時代の西武線と青梅街道の交点付近に設置された駅で公立昭和病院への通院患者の利便を図ったものだ。また戦後の一時期、かの有名な「黄金列車」の取り扱い駅の一つでもあり積み荷!の貯留槽もあったそうだが貨物列車廃止後約1年半で廃駅となった。

余談ながらここは西武線随一の隘路で青梅街道の踏切が鋭角に交わるのを緩和するためにその前後区間が半径300メートルのS字カーブになっていて列車は時速50キロ制限を受ける。折角花小金井から快調に飛ばしてきたのに、あと少しで小平というところで減速を強いられるのだから恨めしい。

東小平駅:1940(昭和15)年開設、1954(昭和29)年廃止。

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草生している所がかつての東小平駅跡。貨物駅も併設され「黄金」が溜め込まれていたという。:青梅街道の踏切より下り方を望む

両駅とも短命に終わった不運な駅だった。時代の変遷とともに駅の改廃は多々あるが、廃止後それ程経たぬうちに武蔵野線新小平駅が誕生した。東京西郊の小さな町、小平は余程駅に縁のある場所なのだろうか。
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路面電車は馬糞の香り? [大手民鉄]

都電の軌間(線路の内側の幅)は4フィート半(シブロク)で、これは別名馬車軌間という。創業当時(明治時代)は馬が小さな客車を牽く馬車鉄道だったのでそう呼ばれる。
しかし流石に1馬力や2馬力では力不足だったようで、また動力源の「落し物」も問題視され、動力は程なく電気に替わった。

東京市内に路線網が拡充すると、郊外に路線を持つ私鉄も都心へ直通を考慮して、路面電車規格の玉川、京成、京王は馬車軌間を採用、標準軌だった京浜も都心直通のため一時馬車軌間に改軌した時期があったが湘南への直通時に元へ戻した。

戦後になって京成は地下鉄と相互乗り入れ時に京浜に合わせ全線を標準機に改軌した。玉川は地下鉄に取って代わり姿を消し、支線の下高井戸(世田谷)線だけが残った。
馬車鉄本家の都電はほぼ全滅。皮肉なことに元は私鉄の王子電車だった区間のみが存続し、荒川線と名が変わった。近頃は桜トラムとか言うようだがピンとこないし誰もそう呼ばない。

創業以来大きな変革のなかった京王だけは路面電車から高速鉄道に変貌した今でも馬車軌間のままで、直通する都営地下鉄もそれに規格を合わせた。
今も残る馬車軌間。新宿駅の地下ホームに馬車が停まったらさぞや面白かろう。香しき落し物は困るけれど。
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西武多摩湖線のダイヤ [大手民鉄]

その末端部、萩山・西武遊園地(多摩湖)間の昼間のひとときは片道20分毎。同じ電車が往ったり来たりするだけ。これは50年前と変わっていない。支線のそのまた支線みたいな線だし客も1両で足りる位しかいない。
終点が近接する西武園線も同様に昼間1時間3本。ともに4両編成では過剰投資だが他に使える車両がなく致し方なし。多摩湖線、多摩川線に至っては最古参の車両が老骨に鞭打って走っている。

今から50年ほど前の西武の多摩川線と所沢近傍の短距離支線群は全て昼間20分毎の運転で、戦前の国電中古車の2両編成がのんびり走っていた。客も疎らで沿線は田園そのもので住宅街などなく「武蔵野」が延々と広がっていた。アニメ映画「となりのトトロ」にその様子が描かれている。

今では建売住宅が跋扈して広大な武蔵野も随分と肩身が狭くなったものだ。
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伊豆箱根塗色の101系電車
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赤電色に思う [大手民鉄]

西武多摩川線(当時は多摩鉄道)開通100周年記念で101系247Fが赤電色になった。

多数のリクエストがあったと聞くが赤電の時代は比較的長かったし、あの頃は多数の形式があったので人気があるのだろう。しかしこの色、往時の色とは少しニュアンスが違うように思う。光線の加減かも知れないが赤が少し明るい。また、窓上の細帯は心持ち太い。801系や411系(後期)の帯は在来形式の雨樋と同様の太さだったように記憶するが、今風赤電と言うことでこれはこれで良いのかもしれない。

しかしどうにも鉄仮面にはブラックフェイス以外は合わないように思う。窓が大きく明快なデザインにこそこの塗り分けは似合うように感じるのだが。
赤電
(昨年末に八坂駅で撮影)

さて、この塗色が最初出たのは1960年頃だっただろうか。当時はこれが「新塗装」で1964東京五輪の時には全車赤電になっていた筈だ。元々は旧西武鉄道の色だった旧塗装(茶黄電)を見慣れた目からすれば随分大胆な配色だと感じた。

当初501系など湘南タイプの形式の前頭部上部のおでこ部分は鼠色に赤の細帯、通称ネズでこだった。701系から赤でこになって以後全形式に波及した。また701系の試験塗装では前頭腰部の赤は真ん中がV字に切れ込んでいた。

その後101系で黄色(と言ってもレモン色だが)が先祖返りしたかのように復活したのには驚いた。暫くは黄色の時代が続き、これが定着したかのようだったが銀電の時代になってからは青基調にっなって現在に至っている。

赤電全盛期には釣り掛け式モーターを唸らせていた西武電車も、今ではVVVFの音を響かせて疾走する。畑と雑木林ばかりだった武蔵野の風景もあの頃とはだいぶ変わった。
タグ:西武 赤電
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ロマンスカーの野望 [大手民鉄]

ロマンスカーの野望

ロマンスカーといえば今や小田急の代名詞と言っていいだろう。そのロマンスカーが今春のダイヤ改正で新宿、小田原間60分到達という、70年越しの悲願を達成する。「スーパーはこね号」が59分で走破するのだ。

これも代々木上原、登戸間複々線完成の恩恵で、この区間で約10分短縮できるからだ。複線の稠密ダイヤでは優等列車が普通列車に挟まれて並行ダイヤにならざるを得ず時間短縮は困難だったがそれが一挙に解消する。

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今から60年以上も前、初期のロマンスカーSE車は低重心構造連接式でスピードアップを図った。これは動力方式は違えどフランスの超特急TGVなどが今でも採用している方式で、恐らく急カーブの続く本厚木、新松田間の「山区間」でのスピードアップを目論んでいたものと思う。

この方式はその後登場したNSE車、LSE車にも引き継がれたが、HiSE車では当時流行したハイデッカー構造を取り入れ低重心ではなくなってしまった。この時点で車両の構造によるスピードアップは諦めたように思う。将来の複々線化による効果を既に見据えていたのかも知れない。

さらに後、特急車の形式番号が5桁になってからは連接構造も止めてEXE車、MSE車と平凡な着席通勤特急車が増備された。旺盛な通勤需要を優先させるため「ロマンス」どころではなくなったのだろう。唯一御殿場直通のRSE車だけは観光を意識して二階建て車を挟んだ。Rはリゾートの頭文字なのだから。

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ところが近年になってVSE車の登場で連接式が復活し味気なくなっていた特急車に喝を入れた。この時期ロマンスカーの人気が凋落低迷していたものと推測される。これが増備されるかと思いきや今度はGSE車なる新顔が特急の時間短縮をアピールするが如く鮮やかな真紅の車体で登場した。

連接式を採用しなかったのは最早車両によるスピードアップの必要性が無くなったからだろう。皮肉な結果ではあるが矢張り複々線化の効果は絶大で長期に亘る小田急の夢、小田原60分が21世紀に入り漸く実現することとなった。
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